・主観というのは、人間の数だけある。
「わたしは、こう見る」とか「わたしは、こう思う」は、
ほんとうはみんなのところにある。
ただ、みんながそれぞれの主観を、
そのまま口に出したら、差し障りのあることも出てくる。
そう思って、人は、主観をそのまま語らなくなる。
じぶんひとりの主観を語るよりも、
みんなの主観を調整したものを、
「客観」として受けいれて、
それを主観として語るようになるのである。
ようすを見て、正しそうなことを言う。
それを、じぶんの主観として言う。
こういうクセがついていってしまうのだ。
語らなくなっていくうちに、主観が減っていく。
つまり、感じたり思ったり考えたりしても、
どうせそのまま語らないのだから、まずは、
主観として感じることをやめておいて、
じっくりあたりを眺め回して、
見えてきた正しそうな考えに合わせようとする。
そういうことをしているうちに、
じぶんが感じたり思ったりする必要がない
‥‥と思うようになっていく。
人間の数だけある、はずの主観は、
ものすごく少なくなっていく。
正しそうなことや、迷惑にならなそうなこと、
りこうそうなこと、やさしそうなことを
探すことばかりしているから、
「わたしはなにを思えばいいんだ?」と、
すっかり主観を失って生きていくことになる。
有吉弘行さんや、蛭子能収さんや、
マツコ・デラックスさんを、テレビが必要とするのは、
彼らがいないと主観のない世界になってしまうからだ。
あなたもぼくも、ふだん、主観を窮屈に閉じこめている。
だが、主観をいつも見失わないということならできる。
おそらく、アートの役割は、そんなところにある。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
どれくらいナイスな主観を持てるかというのは、芸だよね。
http://www.1101.com/home.html