「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」

・「ほぼ日手帳」のなかでも複数回紹介されたから、
 けっこうたくさんの人たちが覚えているかもしれません。

 「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」
 中学校の先生が、卒業する生徒たちに
 贈った言葉だそうです。
 君たちは、まだ夜明け前にいるのだと。

 「ほぼ日」に届いたメールで教わったことです。
 みんながそれぞれ、年齢を3で割って、なにか考えます。
 30歳でも午前中です。
 40歳だと午後の1時20分かな。
 50歳が、午後4時40分で、
 ぼくが「ほぼ日」を始めたのはこのころです。
 なにかと、あせることもないか、と思いますよね。
 ところが、いま、あらためてこの割り算をしてみたら、
 もうじき、ぼくの時計は
 夜中の11時になると気づきました。
 あらま、です。あと1時間で今日の日が終わっちゃう。
 若い人には勇気づけになるこの人生時計の考えは、
 年寄りの覚悟を決めさせることになるのでしょうか。
 そうです、それはそれでよろしい。
 ぼくはそれでいいと思います。
 深夜に、人が寝静まってから、
 死者のように感じ、思い、彼岸からの目を見開く。
 そういう時間を過ごすのがよさそうです。
 つまりそれこそが、還り道の生き方でしょう。

 でも、なげやりに歩いちゃだめだとも考えます。
 ちゃんと目を覚ましていようと、思います。
 いい加減で、どうにでもなれとか考えやすいぼくが、
 どうしてそんなしっかりした人みたいなことを言うのか。
 わりと、たしかな理由があります。
 もっと生きるつもりで生きていたのに、
 まだ6時くらいの夕暮れのうちに別れた人がいて、
 その人との時間を、まだ続けていたいからです。
 だから、たとえ11時でも、12時を過ぎても、
 起きて目を覚ましていようと思っています。
 話しかけてた、やりかけてたことの続きが、
 まだまだ、たっぷりあるのですから。

今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
欲深かなつもりもないのですが、まぁ、欲深かですかねぇ。

via ほぼ日

「誰かに知ってもらっていること」の逆は、「誰にも知られずにいること」だ。

「誰かに知ってもらっていること」の逆は、
 「誰にも知られずにいること」だ。
 知られていることで、面倒なこともあるかもしれないが、
 人が知っていてくれて、しかも理解してもらえたり、
 応援してもらえたら、思ってる以上の力が発揮できる。
 そしてもうひとつ、「知られていること」は、
 「守られること」でもあるとも思うのだ。

「人の一生っていうのはさぁ、なにを言ったかじゃない。 なにをしたか、それに尽きるんだよ。」

・イチロー選手は、打率よりもヒット数を大切に考えた。
 打率のいちばん高い選手は、
 首位打者としての栄誉を得ることができるのだけれど、
 率を下げないために出場をしないという選択もありうる。
 しかし、ヒット数というのは、
 機会が増えるたびに、ただただ足し算で増えていくから、
 続けて何本も打てることだってあるし、
 打席に立っているかぎりは減ることはない。 
 いつでも、頭のなかの割り算を忘れて、
 具体的に「ヒット」を打つというシンプルな方法は、
 じぶんが「なにをするべきか」を明確にしてくれる。
 
 他のことでも、同じようなことは言えると思うのだ。
 いわゆる、よくモテる男などは、
 ふられることを怖れずに、女性にアプローチする。
 何人口説いて、何人にふられたとしても、
 ひとりでもふたりでも相手にしてくれる人がいるなら、
 それは、望みが叶ったということだからね。

 逆のケースは「参加しない、つまり口説かない」だ。
 アウトになるのがいやだから、打席に立たない。
 実際に打席に立ってはいないのに、
 「あわよくば」という期待があるのが図々しい(笑)。
 「興味なかったんだけど、口説かれちゃって」とかね。
 そんなの、一等の宝くじが風で飛んでくるような話だぞ。
 打席に立たないけれど「ああでもないこうでもない」と、
 知ったような評論をしたり、試合中の選手に対して、
 欠点を指摘したりするようなことも、よくあるしねー。
 
・積み重ねるヒットを打つために、いまなにをしたらいい?
 それしかないんじゃないかと思うんだよね。
 他の人が打ったヒットの資料をゴマンと読んだところで、
 打席に立たなきゃ、ボールを投げてももらえない。
 
 ぼくも、それなりに長く生きているうちには、
 たくさんの別れも経験してきて、強く思うことがある。
 「人の一生っていうのはさぁ、なにを言ったかじゃない。
 なにをしたか、それに尽きるんだよ。
 いいこと、親切、冒険、人騒がせ、仕事‥‥」
 なにを言ったかは、やったことの索引にしか過ぎない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
評価とか評判なんてものも、打率に似てるかもしれないね。


from ほぼ日 

「やっぱり、人のこころの底の底には、さみしさがあります。」

・人間が、原始の時代だとかのように、
 もっと直線的な日常を送っているころには、
 一日のなかに、あんまり多くのことがなかった。
 会う人の数にもかぎりがあって、
 やることもひとつとかふたつとかだったと思う。

 人の一生についても、いまの人たちのような
 あれがあってこれがあってというふうな、
 たくさんの出来事はなかったろう。
 日が昇って、日が照って、日が沈んで、月が出て‥‥。
 そんなふうに、くり返しのリズムがあって、
 生まれて、生きて、死ぬ。
 そういうことを、退屈だと思うのか、
 ちょっとうらやましく思うのか、
 ひとりの人のこころのなかには、どっちもあるだろう。

 ぼくらの生きているいまの時代には、
 あれもあって、これもあって、あれこれあって、
 いくつもいくつものことが泡のように浮かんでは消える。
 悲しくてたまらないような出来事があっても、
 その感情にずっと浸ってはいられない。
 次の場面になったら、しっかり者の顔で、
 いかにも希望に満ちた明日を語ったりする。
 そして、うれしいことのあった人に会えば、
 いっしょにそれをよろこんで笑い合ったりもする。
 深く考えなくてはならない問題などがあれば、
 電気スタンドのあかりの下で悩んだりもする。
 そのたびに、感情の流れも変えるし、
 想像する景色も変えているはずである。

 ひとつの感情にいつまでもつきあっていることも、
 次々に起ることに対応するために、
 くるくると考えも思いも変えていくことも、
 どっちも人間のやることにはちがいない。
 ぼくらは、ひとりずつが、
 ひとつの肉体を持つひとりの人間だけど、
 昔の人のようなこころと、いまの人のこころとを、
 行ったり来たりできるはずだと思っている。
 ゆっくりできる日をつくって、ひとつの感情に、
 じっとゆっくり浸るようなことをしてみたいと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やっぱり、人のこころの底の底には、さみしさがあります。

ほぼ日より