「そういえば、本気じゃない練習は無駄だとも言われるよね。」

・野球の試合を観ていて、よく言ったりするものだ、
 「一度、ホームランってやつを打ってみたいな」と。
 ぼくも言ったことがあるし、そう思ったのは事実だ。
 嘘をついているわけじゃない。
 
 ホームランでも、サッカーのゴールでも、
 ナンパでも、金もうけでも、なにかの悪ふざけでも、
 「一度やってみたいと思ってるんだよ」と、
 ほんとうによく、人は言います。
 くり返すようですが、嘘を言ってるわけでもない。
 
 ただ、本気じゃないのです。
 ぼくも、「ホームランになりたい」という
 詩を書いたことはあるけれど、そっちは本気でした。
 しかし、「ホームランを打ってみたい」は本気じゃない。
 いまだに、どこかの球場のスタンドに
 打球を放り込んだことはないし、
 それをするために、練習をしたことさえもない。
 そのくせ、「一度、ホームランを打ってみたいね」とか、
 平然と人前でしゃべったりしているわけです。
 
 なんだろう、嘘じゃないけど本気じゃないことって。
 お囃子みたいなものでしょうか。
 天候のあいさつみたいなものなのでしょうか。
 幼稚園児の結婚の約束のようなものでしょうか。
 
 「一度やってみたいと思ってる」ことを、
 本気でやろうとしている人は、
 昨日も今日も、そのためのなにかをやっているんです。
 いや、身も蓋もない言い方ですが、
 ホームランでもナンパでも、
 実際にやってる人間は、本気なんですよね。

 そして、夢のように夢を語るだいたいの人は、
 本気じゃなくて、いつか忘れちゃうんです。
 ホームランを打てないかもしれないことに、 
 挫折もしないだろうし、敗けを認める必要もない。
 うまくいかなくて謝ったりするようなこともない。
 だって、本気じゃないんだから、忘れるだけなんです。
 現場と本気に対して、本気じゃない者は謙虚であれ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば、本気じゃない練習は無駄だとも言われるよね。

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「ぼくには、とりたてて不幸がない」

いまにして思えば、なにを考えていたんだか、
 「ぼくには、とりたてて不幸がない」
 ということを、じぶんの弱みだと思ってる時代があった。
 それは、同時に、
 「ぼくには、とりたてて誇れるものがない」
 ということを意味しているのもわかっていた。

 どっちつかず。
 中間のところにいて、目立たない。
 ふつうである。
 平凡である。
 なまぬるい。

 ‥‥そういうことにコンプレックスを持っていた。
 平板で、山も谷もなく、危険もなく、劇的でないのだ。
 他の人が見て、気の毒でもなく、うらやましくもない。
 そのことに耐えられないとか、思っていた。
 いや、正直にいえば、それをテーマとして発見していた。
 ふつうすぎて、訴えたいことなんて見つからない。
 つまり、テーマなんか持ってない不安が、テーマだ。

 そういうことを、漠然と考えていた時代があった。
 誰のことでもない、ぼく自身のことだ。
 いま、そのころのじぶんに会ったとする。
 そしたら、ぼくはなにを言うだろうか。
 「めんどくさいやつだ、でもじぶんだからしかたない」
 そういう思いから、はじまるのかな。

 「じぶんでやったことが、なにもないんだから、
 なにもないと感じるのは、あたりまえのことだよ」
 と、ほんとうのことを言ってやっても、
 理解してもらえないような気がする。
 「ふつうで平凡なりに、なにがやりたいの?」
 と質問しても、ごちゃごちゃ理屈を言いそうだ。
 ああ、じぶんのことながら腹が立つけれど、我慢する。

 「どうやって、食っていく?」
 そこからしかはじまらないような気がする。
 あるいは、家族を「どうやって食わせていく?」。
 若いぼくからしたら、いちばんいやな質問だったろうな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんばかり見つめていても、じぶんは見えませんでした。 

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