「なにがよろこばれるか」を探すよりも先に、「人って、どういうことをよろこぶんだろう」のほうが、ずっと大事なことなのだと思うんです。

いろいろとうまく回っていることについて、
 「どうしてうまく行ってるんでしょうね」と、
 人々はよく考えたり質問したりしています。
 ぼくも、じぶんがやっていることについても含めて、
 いっしょに考えているのですが、
 その答えのほとんどは、同じになります。
 「人がよろこぶことをやっているからじゃない?」
 なんとまぁ、単純なことでしょう。
 その単純な答えに、あえてちょっと付け加えるとしたら、
 「そして、じぶんもたのしいんだろうね」があるかな。

 いちいち、例をあげて説明するのはめんどうなのですが、
 逆に考えたら、さらにわかりやすいかもしれない。
 「どうしてうまく行かないんでしょうか?」
 「人がよろこぶことをやっていないかな?」です。
 そして、ちょっと付け加えるならば、
 「じぶんも、たのしくないんじゃないか?」
 ということになるでしょう。

 いいことをしているのに、うまくいかない。
 みんながやるべきことなのに、手伝ってくれない。
 これは、「いいこと」だったり「正しいこと」だけど、
 たぶん、「人がよろこぶこと」じゃないのでしょう。
 そして「くるしそうに」やっているのが見えたりもする。
 
 「人がよろこぶことをやっている」というのは、
 かならずしも、人たちに「なにがうれしいですか?」と
 訊き回ってそれを実現することとはかぎりません。
 「だれかがおもしろそうにはじめたこと」を、
 人々がよろこぶようになるということは、
 世の中にいくらでもあるわけでして。
 早い話が、みんなに大人気のパンダでも、
 最初は「見たこともないどうぶつ」として登場しました。
 「なにがよろこばれるか」を探すよりも先に、
 「人って、どういうことをよろこぶんだろう」のほうが、
 ずっと大事なことなのだと思うんです。

 ドラッカーさんが言った「顧客の創造」とは、
 つまり「人びとがよろこぶことを生み出そう」です。
 人がよろこぶことが、うまくいくこと‥‥ですよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
余計なことを考えるよりよろこびについてのみ考えること。

「それ、おもしろいか?」という魔法のことばがすべてだ。

・ずいぶん昔のことになるけれど、
 お元気だったころの任天堂の山内さんが、
 こんなことを話してくれた。
 「任天堂は、不要不急のものを売っとるのや。
 誰にも必要なものやないんや。
 おもしろくなかったらほんとうに要らんのや」
 社内社外、おおぜいの人がそのことをわかってない、と。
 出すもの出すものが大ヒットしている状況のなかで、
 これを聞いたときに、ぼくは、なんだかわくわくした。
 
 人気絶頂のアイドルグループをいくつも抱えた事務所が、
 「うちは不要不急のものを売ってるんです。
 魅力的じゃなかったら、すぐ客席はがらがらになります」
 なんて言っているのと同じことだ。
  
 生きることのなかでの、歌や花や遊びの大切さを、
 これまで、ぼくもなんどでも語ってきた。
 しかし、それは、人が余裕をなくしたときには、
 かんたんに捨てられてしまうような種類の
 「大切なこと」にしかすぎないとも言えるのだ。
 戦後の食料を手に入れるために、
 タンスの中の着物と交換した、というようなことが、
 これからあるのかと言えば、そういうものでもないが、
 「それどころじゃない!」という呪文は、
 いつでも人の口から飛び出すと覚悟しておくほうがいい。
 現に、大きな事件や災害があったあとには、
 さまざまな方向から「不謹慎だ」という声が、
 あちこちにこだましていたではないか。

 「なくてはならないもの、ではない」ものの市場は、
 「なくてはならないもの」の市場よりも
 おもしろそうに見えたり、たのしそうだったりする。
 「確実にこれくらいの人が必要としている」
 なんてことは言えない商いをしているのだ。
 商品(コンテンツ)が「できた」では「できてない」。
 できてるだけでは、「なくてもいいもの」のままなのだ。
 おもしろい、きれい、たまらん、すてき、かっこいい
 という計測しにくいほめられ方が、ちゃんとできてるか?
 「まぁ、いいか」程度も含めてもセーフかもしれない。
 山内さんの、あのことば、ぼくはずっと憶えている。

「それ、おもしろいか?」という魔法のことばがすべてだ。

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 語らなくなっていくうちに、主観が減っていく。

・主観というのは、人間の数だけある。
 「わたしは、こう見る」とか「わたしは、こう思う」は、
 ほんとうはみんなのところにある。
 ただ、みんながそれぞれの主観を、
 そのまま口に出したら、差し障りのあることも出てくる。
 そう思って、人は、主観をそのまま語らなくなる。

 じぶんひとりの主観を語るよりも、
 みんなの主観を調整したものを、
 「客観」として受けいれて、
 それを主観として語るようになるのである。

 ようすを見て、正しそうなことを言う。
 それを、じぶんの主観として言う。
 こういうクセがついていってしまうのだ。

 語らなくなっていくうちに、主観が減っていく。
 つまり、感じたり思ったり考えたりしても、
 どうせそのまま語らないのだから、まずは、
 主観として感じることをやめておいて、
 じっくりあたりを眺め回して、
 見えてきた正しそうな考えに合わせようとする。
 そういうことをしているうちに、
 じぶんが感じたり思ったりする必要がない
 ‥‥と思うようになっていく。
 
 人間の数だけある、はずの主観は、
 ものすごく少なくなっていく。
 正しそうなことや、迷惑にならなそうなこと、
 りこうそうなこと、やさしそうなことを
 探すことばかりしているから、
 「わたしはなにを思えばいいんだ?」と、
 すっかり主観を失って生きていくことになる。
 
 有吉弘行さんや、蛭子能収さんや、
 マツコ・デラックスさんを、テレビが必要とするのは、
 彼らがいないと主観のない世界になってしまうからだ。
 あなたもぼくも、ふだん、主観を窮屈に閉じこめている。
 だが、主観をいつも見失わないということならできる。
 おそらく、アートの役割は、そんなところにある。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。

どれくらいナイスな主観を持てるかというのは、芸だよね。


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「三年先」のための稽古。

・これはまた聞きの話なのだけれど、
 いまの九重親方、かつての大横綱千代の富士さんが、
 「明日、明後日に勝つための稽古がある。
 もうひとつ三年先に勝つための稽古をしていた」らしい。
 これもまた、おそらく、なのだけれど、
 「三年先」のための稽古をすることで、
 明日や明後日の白星によからぬ影響を与えることは、
 きっとあると思うのだ。
 それは、いま現在うまくいっているバランスを、
 変えてしまうようなことなのだろうから。
 しかし、明日の勝ち星ばかりを奪おうとしても、
 やがて、それが行き詰まるという日がくる。
 なにかを本気でやっている人なら、よくわかるはずだ。
 ずっと同じやり方では、次第に勝てなくなるのだ。
 だから、明日も勝つために稽古をし、
 三年先にさらに強くなっているための稽古を、
 さらに付け加えることが必要になる。
 
 相撲に詳しいわけじゃないから、
 知ったかぶりはできないけれど、
 相撲の世界にも、この「三年先」のための稽古を、
 意識的に採り入れている力士は、少ないのではないか。
 そんな気がするのは、ぼくの想像できる業界でも、
 そういうことが言えると思うからだ。
 「いまうまくいっている」人は、どうしたって、
 その、うまくっている状態をキープしたくなる。
 あるいは、その状態をちょっとよくする努力をする。
 でも、少しずつましになるくらいでは、
 どうしたって寿命がくるものなのだ。
 それはもう、定理みたいなものである。
 だから、いま現在に多少の悪影響があったとしても、
 三年先に活躍する、もうひとつの勝ち方を
 準備しておく「勇気」が必要になるのだと思う。

 これは、できそうで、できないものなのだ。
 「イノベーション」とは、そういうものなんだと思う。
 いま(現在)を壊滅させちゃったら生きていけない。
 しかし、いま(現在)に安住してたら死んでしまう。
 しかも、どんな稽古をしたら三年後の強さに至るのか、
 それがなかなかわからないから、さらにむつかしい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
手足をつけられる夢って、アイディアの芽が隠れているね。 


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